| ちょっと道草1-ショパンはなぜパリに? |
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| 故郷ワルシャワで、すでに「ピアノの天才」として高い評価を得ていたショパンは、1830年11月2日コンスタンツィアへの恋心を胸にうずめてワルシャワを後にしウィーンに向かう。このとき20歳とされている。(ショパンの誕生日については諸説あり。) 11月23日ウィーン到着。ところがそこでの活躍を夢見ていたショパンであったが、同29日故郷ワルシャワで革命が勃発する。当時故国ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアに分割統治されており、それに対する反乱の火の手が上がったのである。その為、ウィーン市民のポーランド人に対する感情は露骨に、しかも急激に悪化し、ポーランド人であるショパンは演奏会すら開くことができなかった。 無為のうちに8ヶ月をウィーンで過ごしたショパンは、1831年7月その当時ヨーロッパでもっとも大きく、賑やかだったパリ向けて旅立つ。その途中、シュツットガルトで「ワルシャワ陥落」の悲報が届く。この悲報に故国への篤い思いを掻き立てられたショパンは、あの名曲「革命のエチュード」を一気に書き上げる。 同9月パリに到着。フランス革命直後のパリは、喧騒と激動の地であったが、自由を手にした市民達の活力に満ちた街でもあった。文学、絵画、音楽などの芸術家達がヨーロッパ中から集まり、その活動もまた活発であった。 そのような中、翌年2月26日、ショパンのパリにおける第一回目の演奏会が開かれる。演奏はもちろん大成功で、一躍注目を集める。ショパンがこの記念すべきパリデビューを果たしたのが、Salle Pleyel(サル・プレイエル)、つまりプレイエルホールである。 |
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